占いを賢く利用するには

視えるって?

占いやスピリチュアル関連でよく見かける言葉の一つに「視える」というのがあります。

率直に言って誤用だと思います。命術の占いであれば、推す・分析する・読む、という表現が適切ですし、卜術であれば、当たるが正しいです。

だって、「視て」なんかいないですから。カードや出た卦を「見て」はいますけどね。

占術と霊視霊感を一緒くたにしている現状がよく表れていますが、そもそも視えるってどんなメカニズムか分かりますか?

肉眼で物理的に見えている訳じゃない、と以前にも書きましたが、それを覆い隠す為に「視える」と言い換えている様に思います。正確に言うと「メッセージを受け取る」です。

断片的な静止画像がチラッと脳裏に浮かぶ、答えと思われる言葉が頭の中に入ってくるイメージなのですが、問題はそれが合ってるかどうかは別の話ということです。

外れた場合、お客さんは「あの先生、視えてなんかいないよ。」と評しますが、実のところは誤ったメッセージを伝えられただけなんです。だから霊視の先生は「私は視えたものをそのまま伝えただけです。」と常套句の様に言いますが、これは言い逃れではなく、事実そうなのです。

霊視というのはそういうものだと思って利用することが大切です。

 

明治時代に起きた千里眼事件というのがあります。いわゆる透視能力を持つとされた御船千鶴子さんを巡る真贋論争のことですが、これとて上記の根本的勘違いが生んだ悲劇だと言えるでしょう。封筒やら何やらに入れたものに書かれた文字が読めるかどうか、という実験を繰り返し行われて、最後は服毒自殺してしまったというものですが、物理的に見えるなどと周囲が思っているから「ならばこれの中身を当ててみろ。」という話になるのであり、御船さん自身にそんな封のされたものの中身が物理的に見える訳じゃないんですよ。

何かがある情報をくれる、そして必ず正しい情報をくれる訳じゃないということが分かっていれば、御船さんを追い詰めることは無かったでしょう。

情報をくれたのは高級心霊さんや御船さんの指導霊だったと推測しますが、健康相談や失せ物相談、人の安否の様に世の為人の為に役に立つことには御船さんを霊媒として教えていたのが、つまらん真贋論争には手出ししなかったものと思います。そこで百発百中当てていたら、また別の悲劇に見舞われていたことでしょう。

前にも書きましたが、神様が何でも出来るという勘違いを人間がしている為に、御船さんが仮に百発百中で当てていたら神様の代わりみたいなことを次々に頼まれる様になり、やはり限界が生じて力尽きていたはずです。

そんな力及ばぬことに限って、外れて欲しくない重大な案件だったことでしょう。で、結局はインチキだと責められたであろうことは容易に推察出来ます。

 

現代の占い業界はこの悲劇を占者だけでなく、お客さんにも広げている様な気がしてなりません。神様は眺めていることでしょう。「まったく人間というものはいつの時代も自分勝手な欲に溺れて、出来もしないことを望んであくせくするものだ。」と。

ま、とはいえなまじの霊媒体質をいいことに、さも自分に特殊な問題解決能力があるかの様に振る舞う人は論外ですけどね。占いファンのお客さんにおかれましては、

霊視が外れるのは珍しくないし、ましてや問題解決の切り札ではない。

ということをよく理解した上でご利用なさることをお勧めします。占術だって当たるも八卦当たらぬも八卦って言うくらいですから。